2018/02/04

物の所有を学ぶ庭


ジエン社の「物の所有を学ぶ庭」の稽古に参加している。と、言っても舞台上で演じるのではなく音楽で参加するためだが。

今回の作品は、所有の概念が多くの人と違う「妖精さん」を庭に住まわせ、所有の概念を少しずつ共有できるように教えていく、という話。恋愛モノではないし劇的な展開もなく、一見地味だがすごく面白いテーマだ。


私たちは多くの物を「所有」していると思っている。だが、持ち主が死んでしまったらその物はどこへ行くだろう。棺桶に一緒に入れられることもあれば捨てられることも、新しい持ち主の手に渡ることもあるだろう。私たちは一時的に所有しているに過ぎない、と私は思っている。
食べられる物だったとしても同じだ。栄養素を吸収し、残りを自分の細胞に蓄える。でもやがてその細胞も排出される。私たちが未来永劫所有できるものなんてひとつもない。
では、思想はどうだろう。頑固ジジイや考えが変わらない偏屈野郎は同じ思想を持ち続けているのだろうか。もしかしたらそうと言えるかもしれない。でも大抵の人間は自覚的であれ無自覚であれ少しずつ思想が変化している。長生きすれば必ず認知症の症状が現れ、元々の性格を反映した認知症状が見受けられるようになる。少しずつ、あるいは大幅に変化する思想を私たちは持っていると言えるが、それも身体がつきるまでの話。生命には必ず終わりが訪れる。宗教や各々の思想によって解釈は色々あるだろうが、科学という考え方においては命が尽きたら思考できなくなる、というのが通常のようである。

夫婦、彼氏・彼女という制度を採用している人間が日本文化圏(日本人とは言わない)には多くいる(ように思うが実際はどうなのだろう)。
人間を「所有」するという主義・主張の最たる例だと思っているが、人間を所有することは人道的に考えると大変難しい。人道的なことを無視し、どこかに監禁して所有した例を聞かなくはないが、通常の人間関係における所有は、ただの約束に過ぎない。
日本文化圏の人間は「付き合って」と言って了承を得ることで所有を言語化するが、欧米人にはその文化がないことが多いらしい。言語化せず、暗黙の了解で全てが進むのだろうが、それこそ妖精さんには難しい例であろう。
そもそも「付き合う」とはどういう状態なのだろうか。「あなたは私の恋人で、私はあなたの恋人であるから原則的に違う人間と同様の関係になってはいけない」が一般的なのだろうが、罰則はない。でもドラマや映画では浮気がバレて修羅場と化しているシーンが描かれる。出典元はないが、「泥棒猫」などという表現があったような気がする。「所有」していなければ「泥棒」にはならない。
結婚は、相手の所有を明文化し、行政が介入することによる「契約」であるから、不倫をして裁判になって負けたら慰謝料が発生することもある。それでも不倫は尽きない。ではなぜヒトは結婚したがるのか。所有の契約が存在しない動物たちとは違うと思いたいのか、一途に生きられると思っているのか、結婚すればなんとかなると思っているのか。
恋愛・結婚いずれにしても、勝手に生きている人間を所有することを宣言するなんてちょっと狂っているのではないかと思う時がある。どこまで行っても相手は他人なのに「自分のもの」と宣言することへの恐怖が私自身にはあるが、相手が魅力的だから約束しておきたいし他の人と付き合わないでほしいという気持ちもすごくよくわかる。
ああ、26歳になったのにどれくらいの文字数かわからないが長ったらしい文章を延々と書いてモテなさを加速させる寂しい女ができあがってしまった。これにて閉会。